2011年01月26日

禊 陸




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安心させるよう笑みを浮かべる。
「今は、まず暖かい場所に行きましょう、大丈夫ですよ」
ひとまず外傷は見当たらず、冷水に浸かっていた割りに無事な様子から察するに、見えないところで自分にも治癒が働いていたのだろう。
泳ぎに自信があるとは言え、真冬の湖に着衣のまま飛び込んで、こうまで無事な道理は無い。
しかし外気はどんどん体温を奪っていく。
せめての風避けにと脱ぎ捨てた衣類を探した。

のそり、どこからともなく巨躯の虎が現れ、咥えていた白い衣を落とす。
感謝を込めて鼻先を一撫でして、二人を守るようコートを羽織り、ケープを青年にかけた。
数瞬、思案してから青年の手を引き、虎に乗る。
横に包み込む形で固定をし、近くの街へ、と口にしようとすると。
「いいえ、東征、離れ・・・に」
「夏山さん」
「駄目・・です、あの城以外では・・・だめ・・・で、す・・・・」
耳障りの良い高めのテノールが、何時に無く低く、切羽詰った声音が途切れる。
訴えは脆弱でありながら必死だった。

真夜中の森を虎が駆け抜ける。
疑念はあった。
元々、この青年の住む城へと向かっていた足だ。
この場から、そう遠くにあるわけでもない。
だが一刻を争う自体において、とりあえず休憩のできる場所と、時間のかかる自宅を選べといわれて前者を選ばぬ道理は無い。
しかし、その理由をすぐに理解することとなった。
森がざわめくのだ。
精霊、魔物、妖怪、普段は低級なる自然の権化、そういったモノたちの視線。
本来的には武道や魔術の心得のある自分達に襲いかかろうとは考えもしない筈だ。

そう、しかし彼は金木犀の血を持つ魔性の一族の末裔。
最も純度の高い血に、幾人も惑わされてきたのだ。

衰弱し疲弊し、常日頃より生死の境が曖昧になっている青年は、彼らにとって天上の御馳走なのだろう。
腕の中の存在は蟲に嬲られる樹液、虫の心身を焦がせる炎。
甘く薫る魔性の血肉。
湖底にあった触手も、それに引き寄せられた一端だったのだと理解した。
そして今も、手を離しただけで、目を離しただけで。
比喩では無く、ただの一瞬で、青年は貪られ絶命する。

奪わせてなるものか。

暗闇を睨みつける。
冷酷に吹きつけ、衣服に潜り込む風に顔をしかめて、よりいっそう青年を強く抱きしめた。
聖職者の腰には剣が携えられている。
蔓草が回収していたそれを再び手にした時、聖職者は鉛のような感慨に浸った。

青年の口ぶりは、ただパーソナルスペースを希望しての発言では無かった。
深い深い怖れと、果てしない断定があった。
水中の光と同様に信じなければならないと強く思わせる。

その名は、信頼だ。
posted by 夏山千歳 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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