2011年01月22日

禊 弐




..
「青匂士、ただ側に控えなさい」
みぞおちの上を越えて、冷水が木綿を侵食する。
青年の顔色は、まるで死人だ。
色という色を失って、蝋人形のような虚ろな眼差しだけが残っている。
「白妙姫」
松の枝葉は、もう必要無かった。
二夜、三夜と繰り返す必要も無かった。
ただ冬の湖面に身を沈ませるだけで完了した。
「成就まで私を生かしなさい」
心臓が浸る。

青年にはもう一度、擬似的に死ぬ必要があった。
何故なら、それでも今こうして生きている、からだ。
幾ら擬似の死を積み上げようとも、死界へ赴く手段にはなりえないのだ。
覚悟を決めねばならない。
生きる必要と、死なねばならない結果を天秤にかけて、そのどちらも放棄できぬとわかりきっていた。
生きて帰らなくとも、目的のための手段だけを家族の元へ送ることは可能かもしれない。
いや、そもそも生きて帰るという発想こそ、過ぎた望みなのだ。
しかし青年には、それ以上の、ただ一筋の理由があった。

あぁ、だって網膜の裏に、梅の花が薫るのだ。

ならばこの禊は何のためにあるのか。
「私の命のともし火が消えるまで仕えなさい。
その全てが終わったあかつきには、私の血肉を貴方がたに捧げましょう。
この禊をもってして初めて契約は完了するのです」
既に肩まで水に浸かった。
緑がかった黒髪の先が、水を吸って益々色濃くなった。
薄紙が色水を吸うように。
「その全てが終わったあかつきには、真冬の湖水で清めた千歳の身体を捧げましょう」
手を伸ばす、いざよいへ。

私は月です。
私は光です。
私は貴方です。
私は全てです。
私を忘れないでください。
私を求めてください。
私も貴方を求めます。
私は愛です。

月は今宵もそこにあり永久にそこにあり、美しさは決して欠ける無く、私はそれと同等だと知ってしまった。
「千歳という供物は、これで完成致します」
知ってしまった。

そこまで言い切ると、それまでの緊張が緩んだのか。
それとも強い波風に水流が生まれたのか。
須臾を持って、青年はその場から、消えた。
posted by 夏山千歳 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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